今年2月初めに父が他界しました。享年71歳 肺ガンでした。何年も絶縁状態にあった私が最後に見た父の顔は棺おけの中で別人のように痩せこけてはいましたがとても安らかな寝顔でした。
私の父はとても普通ではなく いわゆるダメな父親でした。野心家で頭もよく働き者ではあったけどお人よしで騙されやすく若い頃からよく事業を失敗しては親戚に尻拭いをさせていたようで その癖は所帯持ちになっても変わりませんでした。子供の頃いつも家を空けていた父の思い出はそれほど多くありませんでしたがたまに戻ってくると私を可愛がってくれて私も父が好きでした。大人になるにつれて次第に父のダメな側面が見えてきて、苦労している母の苦労の原因が次第に判ってきた頃から父子の溝は深まっていくようになりました。私が二十歳の時に多額の借金を残して身を隠し、隠遁先で別の女性との間に子供まで作っていました。借金の内、数百万が私の実印で連帯保証人(知らなぬ間に)となっていたので手切れ金と思って支払いましたが父子の断絶は決定的なものとなりました。その後、父は母と離婚し先方の女性と結婚したようです。当初は激しく憎んでしましたが次第に無関心となっていきました。憎む感情というのは相手を強く意識しているからこそ生まれる感情であって親子の感情としては無関心よりはまだ正常な感情のように思えます。ですが私はここ数年あきれるほどに父に対して無関心になっていました。
憎んでいた当初は電話で激しく口論もしましたが、最近ではたまに掛かってくる電話に穏やかに会話が出来ていました でもそれは父を許すとか許さないとか以前にもう関心が無くなっていたからであって電話の向こうで笑っている『父であった人』とはまったく異なる感情を持っていました。
父が亡くなったと彼の奥さんから電話あったときも全く動揺しませんでした。まるで遠縁の葬儀に出席するかのように淡々と準備をして斎場に向かいました。斎場では初めて 父の奥さんと腹違いの弟に会いました。親子程に歳が離れている弟は今度二十歳になる好青年で泣き崩れる母親を支えている姿がとても印象的でした。
棺おけの中の父の穏やかな寝顔を見たとき『お疲れ様 ながい間 ご苦労さんやったね』 不意にそんな言葉が口からこぼれていました。 火葬された遺骨は綺麗な白色で 小さな骨壷に全て収まりました。逆三角形で筋骨隆々だった父の遺骨はあまりにも軽いものでした。
父が亡くなってからよく 昔のことを思い出すようになりました。子供の頃に行った家族旅行や海水浴、公園での自転車の特訓やキャッチボール等 どうやら私の心の中では 無関心な他人 から 亡き父 に昇格したようです。
彼の奥さんが何故、父が亡くなるまで私に連絡をよこさなかったのかは定かではありません。実は父が亡くなる1ヶ月ほど前に、たまたま仕事で東京出張に行った事があり そのとき父は末期ガンで病床にいた事をあとで知りました もし知っていれば必ず会いに行ったでしょう。無関心でなかったら其のことを知る機会もあったはずですが現実はそうではありませんでした。
「よぉ しばらく見ないうちに随分スマートになって男前が上がったやんね」
「おぉ XXXX か よく来たな」 ( XXXX 父が私を呼ぶときに使う愛称 )
「いい歳なんやから 看護婦さんくどいたらいかんよ」
「へへ ばーか まだまだ現役だって」
もし会っていたらきっとこんな会話をしていたことでしょう
結局 父が残したのは生前に使っていた実印だけでした。生前、父の奥さんに『この印鑑はxxxxに渡してくれ』と言っていたようです。この実印は私が成人したときに一緒に作ったもので、母の手編みのレースの袋に入っていました。
子供の頃、度々父が私にこう言ったの覚えています。
『わしが基礎をつくったら印鑑を譲るからその上に立派な家を建てるんだぞ』
小学生だった私にはよく判らなかったけど、事業を興してそれを跡に残す事が父の夢だったようです。事業に失敗し全て無くして病に倒れた父は基礎を作ることはできませんでしたが印鑑を譲るということだけは覚えていたようです。
結局何が言いたいかというと
親孝行 やる気あるなら 生きてるうちに(字余り)
それと 喪中につき年末年始のご挨拶はご遠慮させて頂きます(つーか年賀状買ってねーし)
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